なつかしの佳作 「ひかり」
ビルの狭間からふわっと光の海が広がっていく。
「きっとそう、あそこに違いない」。
加奈子は病室の窓に顔をこすりつけるようにして、光の方を見つめた。
一九九五年十二月十五日午後六時、神戸ルミナリエが初めて点灯した瞬間のことである。震災によって傷ついた人々の心を、そして街を照らし甦らせた神秘の光。そのポスターを目にした時から、加奈子はどうしても見に行きたいと思った。夫にせがんだ。主治医にも懇願した。たとえ僅かな時間でも良いから、外出させてほしいと。だが、許可は下りなかった。「まだ外出は無理です。もう少し体力の回復を待たないと」。主治医は眉をひそめた。加奈子は何も言い返せなかった。主治医の言葉は絶対だ。従うしかない。
左手でおでこをさすってみた。頭の包帯はまだとれていない。時々、ミシミシと頭蓋骨が音をたてる。もう痛みはないが、妙な具合だ。自分の頭であって、そうでないような気さえする。
それはひと月前のこと。突然、加奈子は事務所で倒れた。お茶の用意をするため椅子から立ち上がった途端、ふらっとめまいをおぼえた。そのままふうっと意識は遠のき、ソファに倒れこんだ。震災以来、疲れがたまっているのか、時々頭痛をおぼえていた。一度病院へ行こうと思っていた矢先の出来事だった。
倒れた後は断片的な記憶だけである。ピポーピポーという救急車のサイレン音がかすかに聞こえていた。真っ青になった母の顔。医者の叫ぶ声。看護士の足音…、サンダルでペタンぺタンと廊下を走る音だ。耳元で誰かが叫ぶ。「どうしました?どこが痛いですか?」。加奈子は思った。「静かにして。頭に響くから、もっと小さな声で喋ってよ」と。だが、声にならなかった。
目覚めたとき、病室にいた。夫と両親の顔が見えた。皆悲壮な表情である。特に母ときたら、青ざめ今にも死にそうな顔だった。
検査結果が出てすぐ、主治医から病名を告げられた。脳腫瘍━。「左のおでこのあたりに腫瘍が出来ています。ピンポン玉くらいの大きさです。手術で摘出します。ただ、左脳と言うのは言語や記憶力をつかさどるところなので、術後はリハビリが必要になります」その場の空気が凍りついた。静寂を破ったのは母。わっと泣き出し取り乱した。その様子を見て、加奈子は「また…」とため息をついた。何かにつけて大げさな母である。心配してくれるのは有難いけれど。それよりも、加奈子には子供が産めるかどうかのほうが気がかりだった。
「あの…、子供は産めますか?」。加奈子の問いに、医師は一瞬ぎょっとした顔をした。だが、すぐに平静を取り戻し、「ええ。すぐには無理ですが、大丈夫。産めますよ」と応えた。加奈子は安心した。二度の流産を経験した彼女にとって、子供が産めるかどうかのほうが重大だった。勿論、手術に対する不安はある。しかしこうなった以上、もう医師の手に委ねるよりほかない。加奈子は腹をくくった。
十時間に及ぶ手術に加奈子は耐えた。手術は成功した。だが予断を許さぬ状態だ。術後一晩は集中治療室で過ごす。放射線状にベッドが並べられている部屋である。加奈子は麻酔が効いているせいか、ふわりふわりとした心地だった。傷の痛みはない。けれど、周りから何とも言い難い空気が立ちこめてくる。何だろう、何だろうと考えるうち、突然言い知れぬ恐怖をおぼえた。死の恐怖が部屋中に漂っているのだ。「早くここから出して、早く!誰か、誰か!」。そう何度も心の中で呟き続けた。だが言葉が出てこない。知っているはずの言葉が…。そのことが加奈子をいっそう不安にさせた。
翌日、加奈子は一般病棟へ移された。悪夢のような一夜からやっと抜け出すことが出来、ホッとした。側で見守る夫と両親も少し安堵した表情だった。あとは体力の回復を待って、リハビリである。リハビリも早急にしないと、元通りにはならないと言う。つまり、摘出した部分は空になっている。そこに脳が補充されることはないのだ。
そして始まったリハビリ。例えば「りんご、みかん、いちご、なし」とリハビリ担当医が言う。順番を間違えないように、加奈子は繰り返す。「りんご…、み、みかん。えっと、えっと…」。加奈子はわからなくなり、首をかしげた。担当医は決して加奈子が焦らないようにつとめる。加奈子は深呼吸をすると繰り返した。何度も同じ失敗をし、何度もやり直した。やり直すうち、何故できないのかがわからず、情けない気持ちでいっぱいだった。
計算も同様だった。特に引き算にはてこずった。百から順に七ずつ引くよう言われるのだが、途中でわからなくなる。両手の親指、ひとさし指、中指を順におってみるが、答はなかなか見つからない。冷や汗が頭の包帯ににじんだ。
だんだん不安になっていった。果たして元通りになるのだろうか。頭の中ではちゃんと文章が出来上がっているのに、その通り話すことが出来ない。まして書くこともままならない。夜中になると、シーツをすっぽり頭までかぶり、泣き声が外にもれないようにひっそり泣いた。手術前はあれほど気丈だったにもかかわらず、今は不安で不安でたまらなかった。
年末には退院と決まった。まだ十分回復していないが、リハビリは通院で行うこととなった。母は実家へ引き取ると主張した。加奈子は従うしかない。このまま夫の元へ帰っても、おそらく何も出来ないだろう。でも…。いつか夫の元へ帰れる日がくるのだろうか。以前と変わらずに接してくれる夫だが、加奈子は不安だった。こんな身体になった自分の一生を夫は引き受けてくれるだろうか。
不意に離婚、という二文字が頭に浮かんだ。不思議と覚えていた言葉である。メモ用紙と鉛筆をとった。しかし、今の加奈子には書けない。指が震え、鉛筆を床の上に落としてしまった。拾うと、とがった芯は折れてまるくなっていた。鉛筆はまた削れば良い。でも、結婚生活は…。二度の流産、そして今度の病気。何で自分ばかりこんな目に遭うのだろう。自分ひとりが不幸を背負い込んでいるように思えてならない。
お願い、誰か助けて…。
そんな時、ルミナリエのポスターを見たのだ。直感で「これだ」と思った。「これを見れば元気になれる」。理由などない。ただそう思ったのだ。すがるような気持ちだった。
「もう休んでください」という看護士の声で我に返った。とっくに消灯時間を過ぎている。素直にベッドへ戻った。今夜夫は姿を見せなかった。毎日来るはずなのに、何故来ないのだろう。また不安になった。無理やり眠ろうと、加奈子は目を閉じた。だが、眠れない。やはり夫のことが気になって仕方がない。
しばらくして、しんとした廊下にヒタヒタと足音が聞こえた。看護士のサンダルの音ではない。男性の足音だ。病室の前で足音は止まった。そっとドアを開く音が聞こえる。
加奈子はなんだかドキドキした。もしかしたら夫かもしれない。けれど違っていたらがっかりする。ほんの少しだけ目をあけた。目の前にはトナカイのような赤い鼻をした夫がぬうっと立っていた。額は汗まみれである。
「ど、どうしたの?」。加奈子はビックリして起きあがった。夫は「しいーっ!」と人差し指で口をおさえた。「撮ってきたんだよ。ルミナリエ。見に行けないだろ。だからビデオに。早く持って来たかったんやけど、三宮からポートアイランドまですごい渋滞でね」。触れた夫の手は凍えていた。加奈子は呆然としてビデオカメラを見つめた。見つめる目に涙があふれた。
「泣くなよ。これ見たら、元気になれるんだろ?」。そう。確かにそう言った。ルミナリエを見ることが出来たら、元気になれると。
「とにかくきれいだ。感動したよ。なんていうか、見たことのない光。あったかいんだよ。そう!聖書の世界とでも言うか」。聖書?夫は、聖書なんて読んだこともない。言いたいことはわかるが、聖書とはあまりにも唐突だ。
「途中で雪も降ってきて、幻想的だったよ。ホワイトクリスマスや」。夫は手をこすり合わせながら言った。こんなに饒舌に喋る夫を見るのは久しぶりだ。恋人同士だった時以来のことかもしれない。ルミナリエを見て興奮しているせいもあるだろう。
「ありがとう・・・」。加奈子は消え入るような声で囁いた。夫は照れ笑いをうかべると、「いいよ。じゃ、看護士さんに見つかったら叱られるから。また明日な」と病室を出て行った。中腰になって帰っていく様が何ともおかしく愛しかった。同時に涙が頬を伝った。いくら拭ってもとまらない。
枕元に置かれたビデオカメラ。そっと触れてみた。夫が握っていた部分だけ、まだぬくもりが残っている。スイッチを入れてみる。外に光がもれないよう、頭から布団をかぶって見ることにした。
光、光、光━。
そこには光の織りなす神秘的な世界が広がっていた。たとえるなら、夜の帷に広がる光の海。その海に色とりどりの宝石が浮かぶ。宝石は王冠のようにも見え、幾重にも連なり、アーチを描く。アーチは限りなくどこまでも永遠に続いている。夫が歩き出す。S銀行から横断歩道を渡り、N銀行前で立ち止まった。そこから三六〇度周辺を撮影しはじめた。所々にガレキが見え隠れする。光で照らされた分、端に寄せられたガレキがよけいに目立つ。
突然夫の動きが止まった。くぎ付けになったのか、夫の視線は一点に集中していた。それは子供の遺影を胸にした母親の姿だった。N銀行の前の花壇に腰をおろし、時々遺影に向かって話しかけている。声は聞こえないが、頬に涙のあとが見られる。
夫の言葉はなく、カメラを通してただその女性を見つめていた。ほんの少し画像が揺れる。夫は泣いているのだろうか。加奈子の目も潤みはじめた。しめつけられるような痛みが伝わってくる。遺された母親の悲しみが、はかりしれない痛みが、加奈子の胸を突き刺した。同時に自分自身が情けなく思えた。何を贅沢なことを言ってきたのかと。あの地震で失ったものなど何もない。家族を失うことがどれほど悲しいことか。自分は今こうして生きているのだ。言葉に多少の支障をきたしているといっても、リハビリ次第で何とでもなるだろう。
加奈子は両手で涙を拭うと、心に誓った。
子供をつくろう━。もしかしたら、生命にかかわることになるかもしれない。けれど、どうしても子供が欲しい。どうしても。そして、これを自分の生きる目標にしよう。不意に子供の名前がうかんだ。「ひかり!」。もし子供が産まれたら、男の子でも女の子でも「ひかり」にしよう。決めた。加奈子は手帳に書きとめた。先の丸くなった鉛筆で、「ひかり」と丁寧に書いた。平仮名なら考えなくてもすぐ書ける。
加奈子は嬉しかった。何だか力がわいてくるようだった。ビデオカメラへ目を遣ると、そっと呟いた。「ひかり。頑張ろうね」と。
二年後、加奈子は女の子を出産した。名前は迷わず「ひかり」と名付けた。初めて我が子を胸に抱いたとき、加奈子の心は母となり得た幸せに満ち溢れた。ひかりの小さな手に尊い命の温もりを感じた。
今なお加奈子の試練は続いている。二度の再発、そして再手術。現在もリハビリ中である。まだ言葉を発するには至っていない。それでも加奈子の表情は明るい。ひかりがいるから。この子を遺しては逝けないという強い信念があるからだ。
そして、生きる力を与えてくれたルミナリエの開催を毎年心待ちにしている。
命の灯火 ━ ルミナリエを…。
(2004年12月 神戸新聞文芸小説 佳作 「ひかり」 by とうのよりこ)
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