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小説 「オブリガード」

 「先生。オブリガード!」

 携帯電話から、いきなり飛び出した声。
 ちょうど、麻子がバス停へ向かうため、公園を通り抜けようとしていた時だった。携帯電話が鳴ったので、慌ててとった。が、木陰に入っていたためか、雑音がひどく、「もしもーし」と叫んでも、相手の声は聞き取れなかった。公園の中にあるベンチの前あたりで、ようやく声は鮮明になった。そして、聞こえてきたのが、「オブリガード」だった。

 麻子は、「はい?」と、すっとんきょうな声を出した。間違い電話かとも思った。だが、「先生」と呼ばれる以上、出張パソコン教室の生徒からなのだろう。声色から想像してみて、探るように、訊いた。
 「あの、前田さんですか?」
 すると、「はい、前田タイゾーです」と、弾んだ声が、はね返ってきた。

 タイゾーさんだった。麻子がパソコンを教えている生徒の一人である。
 いったい何だろう、と麻子が考える余裕もなく、タイゾーさんの声は、続いた。
 「ポルトガル語で、『有難う』言うのを、『オブリガード』って言いますねん」
 そう言われて、麻子は、ひらめいた。
 「お孫さんからのメールが届いたんですね?」
 「はいな、届きました。『おじいちゃん、オブリガード』って。ほんまに嬉しゅうて。これは先生にすぐ報告せな、思いまして、電話させてもろたんですわ」

 いかにもタイゾーさんらしい、と麻子は思った。孫からメールが届いた。たったそれだけのこと。いや、タイゾーさんにとっては、一大事である。その一大事をいち早く、自分に知らせてくれる。そういう心遣いが、タイゾーさんらしい。
 「これもみーんな、先生のおかげですわ。先生に教えてもらわへんかったら、ワタシ、なんもできひんかった。いい先生と巡りあえた、思っとります。ほんまに有難うございました」
 あんまりタイゾーさんが、仰々しく礼を述べてくれるので、麻子はかえって恐縮した。お礼を言うのは、むしろ私のほうですよ、と言葉にしかけた瞬間、電話は、ププーッ、と切れてしまった。

 〝タイゾーさんったら、言いたいことだけ言って、切っちゃった・・・・・。〟
 電話のスイッチを切りながら、麻子は苦笑した。見ると、電話には、汗が数滴ついていた。その汗をハンカチで拭いながら、麻子はベンチに腰をおろした。少し休んでいこう、と不意に思った。この心地よさをもう少し味わっていたかったからだ。すがすがしい充実感。こんな幸せな気持ちになれたのも、タイゾーさんからの嬉しい知らせのおかげだ。
 麻子は、ゆっくりと天を仰いだ。真夏の空に浮かぶ太陽が、白く輝いていた。クラクラするほどまぶしい。一瞬、目を閉じた。
 やがて、麻子の瞼に、タイゾーさんとはじめて出逢った日のことが、再現されていった。

 ゴールデンウィーク明けの火曜日午後、麻子は、タイゾーさんの家へと向かっていた。もう半袖を着てもいいくらいの陽気だった。だが、不思議と汗は出なかった。緊張していたせいかもしれない。あらかじめ、紹介してくれた知人から、タイゾーさんの年齢やパソコン経歴等を聞いてはいたが、人柄だけは会ってみないとわからない。どんな人だろう、いい人だといいな、とあれこれ想像しながら、タイゾーさんの家のチャイムを鳴らした。ガチャッとドアが開くまで、心臓がドキドキした。そして、ひょこっとイタズラがばれた子供のように、顔を出したのが、タイゾーさんだった。

 「わざわざ、すんません」とうわずった声を上げ、ぎこちない手つきで、スリッパをすすめてくれた。「こっちの部屋ですわ」と言いながら、案内する後ろ姿も、申し訳ないくらい低姿勢だった。
 通された部屋は、六畳ほどの広さであった。窓際にデンと置かれたパソコンは、一度も使っていないらしく、濃紺の大風呂敷がかけられていた。タイゾーさんは、急いで風呂敷をとると、言った。
 「パソコンは、全くの初めてですから」
 その時、はにかんでみせたタイゾーさんの笑顔を見て、麻子は、すうっと心が和んでいくような気がした。同時に、とっても素敵な笑顔だな、と思った。

 タイゾーさんは、今年の春、五十年近く勤めた大手電機会社を退職した。あと五年間くらいは、嘱託の身分で、と上司に勧められたが、断った。今は、何が何でもパソコンの時代である。工場の現場が多かったタイゾーさんにとって、パソコンなんぞ、驚異に近かった。扱えない自分は、もはや時代に取り残された無用の長物だと感じたのである。
 「残りの人生は、愚妻と、悠々自適に」
 そう公言していたタイゾーさんだったが、退職してひと月あまり経つと、何か違う、と感じ始めた。特に何もすることがない自分に気づいてしまったのだ。仕事一筋で生きてきた人生。趣味と言えば、仕事。妻のグチも、仕事で忙しいんや、でごまかしてきた。だが、その仕事がなくなった今、何もないのである。

 それにひきかえ、妻は、やれカルチャー教室だの、やれお友達とランチだのと、毎日忙しそうである。昼間、家に居ることなど、めったにない。実に生き生きとしている。
 長年、「行ってらっしゃい」「お帰りなさい」と声をかけてくれた妻を、今度はタイゾーさんが、見送り出迎える。
 「立場が逆転してるやないか!」
 タイゾーさんは、自分自身に腹が立った。このままだと、ぼけてしまう、とさえ悩み始めた。

 更に、追い打ちをかけるように、商社に勤める息子一家の転勤が決まった。転勤先は、ポルトガル。ポルトガル、と聞いて連想するのは、カステラぐらいである。地球の果てのような気さえした。五歳になる孫にも、当分会えないだろう。そう思うと、寂しさが募った。だが、ついて行く厚かましさも勇気もない。ただ、寂しいなあ、と妻にグチるだけ。カレンダーを見ては、ため息をつくばかりであった。

 いよいよ息子一家が、明日出発という日の午後、ピンポーン、と玄関のチャイムが鳴った。ひとり留守番をしていたタイゾーさんは、玄関へ出た。ドアの向こうからは、「お届け物です」という声が返ってきた。開けてみると、配達の男が、えらくデカイ荷物をかかえて立っていた。伝票を見ると、息子から自分あてのものだった。商品は、パソコンと書いてある。タイゾーさんは、驚きのあまり、のけぞりそうになった。パソコン嫌いのタイゾーさんにとって、イヤミとしかとれない代物だ。

 一応、届いたぞ、と礼の電話を入れたものの、出発を控えて慌ただしい嫁の対応に、いまひとつ釈然としなかった。すると、「おじいちゃんから?ボク、出る。電話に出る」と、電話口から可愛い孫の声が聞こえてきた。
 「もしもし、おじいちゃん?ボクね、今、お友達とメールやってんねん。ポルトガルへ行っても、続けるねんで。おじいちゃんともメールしたいな、ってパパにお願いしてん。そやから、おじいちゃん、メール送ってね」
 タイゾーさんの目が潤んだ。
 「よっしゃ、わかった。おじいちゃん、毎日メール送ったるで」
 とは言ったものの、タイゾーさんは、途方にくれた。どうすればいいのか、皆目わからない。毛嫌いしていたパソコン。見たことはあっても、触ったことはない。誰かに教えてもらわないとならないだろう。だが、大勢の生徒に混じって、パソコン教室へ通う勇気はない。どうしよう、どうしよう、と考えあぐねるタイゾーさんを救ったのは、妻だった。

 「知り合いでね、自宅に出張してきて、パソコンを教えてくれる先生がいはるらしいのよ。それやったら、大丈夫とちがう?」
 さすが、四十年連れ添った妻である。タイゾーさんは、決心した。それなら、出来るかもしれない。俄然、やる気が湧いてきた。
 かくして、タイゾーさんは、毎週火曜日の午後二時から四時まで、麻子とともに、パソコンと奮闘することになったのである。

 タイゾーさんのような年輩の初心者を教える場合、麻子は、出来るだけパソコン用語を使わないように心がけている。例えば、「クリック」と言うところを、「マウスの左ボタンを人差し指で、一回カチッと、押して下さい」というふうにである。つい癖で「クリック」と口走ってしまうこともあったが、必ず後から言い直すようにした。

 マウスが一通り使えるようになったら、今度はキーボード操作である。メールを送るには、文字入力を覚える必要がある。これが、タイゾーさんには、大難関だった。キーボードに刻印されているひらがなを、ひとつひとつ目でさがしながら、文字を打つ。教える麻子も、根気が要った。力が入りすぎて、「っっっっっっっ」と不要な文字が入力されていても、キーボードに集中しているタイゾーさんは気づかない。麻子が注意すると、「あーあ」と、すっかりしょげた表情になる。見ると、深いしわがきざまれた額には、うっすら冷や汗さえ、にじんでいた。

 だが、こんなことくらいでめげるタイゾーさんではない。何と言っても、孫との約束があるのだ。約束ごとは、必ず守る。それが、タイゾーさんの信念である。
 「孫と約束しましたさかいなあ」
 タイゾーさんは、気をとりなおすように呟くと、またパソコンと向き合うのだった。そして、だんだん仕上がっていく孫への手紙を読み返しては、目を細める。麻子が、ねぎらうと、タイゾーさんは、本当に嬉しそうに、ニコニコと笑うのだった。

 そんなタイゾーさんの笑顔が、一度だけ曇ったことがあった。話の流れで、タイゾーさんの現役時代の話になった時のことだ。
 「ワタシは、ずうっと現場の仕事、まあ言うたら、設計図から、いろんな製品を作り上げていく仕事ですわ。そやから、コンピューターとはまるきり無縁の人間ですわ。機械のものすごい音と熱気の中、しょっちゅう人の怒鳴り声が響いてる。騒々しいとこですわ」
と、タイゾーさんは、古き良き時代を懐かしむように語り始めた。

 「そう言えば、設計図面も、今はコンピューターで作るらしいですな。昔は、全部手で書いとりましたけどなあ。夏の暑い時なんか、扇風機もつけられへんから、風で図面が飛びまっしゃろ。そやから、大事な図面に汗を落とさんように、手ぬぐいを頭と首にまいて、上半身はだかでやっとりましたわ。はたで見てたら、おもろい光景やけどな。書いてる本人は、必死や。急かすと、『うるさい!』。こっちも待ちくたびれて、腹立っとうから、『はよせい!』。さんざん待たされた図面が、製品に出来ひんようなもんやから、またケンカや。設計は、頭で図面ひきよるんですわ。そやけど、ワタシらは、手で図面を読むんですわ。ここが、微妙に違うんやな」

 そう、あの時代はみんな貧しかった。でもお互いを助け合い、
一生懸命働いていた。だから日本は豊かになっていったのだ。
 タイゾーさんの話はさらに続く。
 「もともと現場と設計は、仲が悪いんやけど、たったひとり、設計に友達がおりましてな。ごっつう頭のええ、気もええヤツでね。ワタシの顔を見るたびに、『タイゾーさん、これからはコンピューターの時代やで』言いますねん。いっこも取りあわへんかったけど、今となっては、アイツの言ってたことは正しかったんやな、思いますわ」
 「じゃ、これから、その方とメールのやりとりをなさったら?」

 しかし、タイゾーさんは、首を横に振ると、くぐもった声で応えた。いつもの笑顔は、かき消えていた。
 「したくても出来ません。あの世におりますさかいなあ。まだ五十六歳の若さやった。・・・・・出勤前に、トイレで倒れて。救急車で運ばれて、緊急手術したんやけどな。連絡受けて、ワタシ、駆けつけました。廊下で、真っ青に突っ立っとう奥さん見て、こらただごとやない、思いました。本人見て、もっとビックリや。見る影もない。骨と皮になっとりましたわ。意識も朦朧としてて、そやけど、ワタシやとわかると、こう言うのや。『タイゾーさん、すまんけど、今度の新設プラントの設計図面なあ、描き直すよう言うてくれへんか。あそことここがおかしいんや』。そう言うて、まるで目の前に図面があるかのように、指さすのや。涙があふれてきましたわ。仕事だけが生き甲斐の男やったさかい、よっぽど気になっとったんやろ。骸骨みたいになったアイツの手、握りしめて、『よっしゃ、わかったで』言いましたわ。・・・・・亡くなったのは、翌日のことやった」

 一気に語り終えたタイゾーさんは、深いため息をつき、肩をがっくりと落とした。その肩からは、友を失った寂しさが、にじみ出ていた。麻子は、言葉を失い、ただタイゾーさんを見守った。
 長く重苦しい沈黙が、二人を包みこんだ。窓からは、オレンジ色の西日が、タイゾーさんのまるくなった背中を照らしていた。置き時計のカチ、カチ、という針の音が、不気味なくらい大きく、部屋中に響きわたっていた。

 やがて、タイゾーさんは、ゴシゴシと目をこすりながら、「すんません。なんやしんみりしてしもて」と、麻子にあやまった。そして、一生懸命、笑顔を取り戻すと、つとめて明るい声で言った。
 「ワタシは、こうして元気に生きてるさかい、アイツの分まで、残りの人生、頑張らなあきませんなあ。ボケんためにも、な」
 麻子は、夢中で応えた。
 「そうですよ。頑張りましよう。私も、頑張りますから!」
 それは、タイゾーさんを励ましたい思いから出た、麻子の精一杯の言葉だった。ふと、パソコンインストラクターという職業に対して、嫌気がさすこともあった。だが、もし、自分がパソコンを教えることで、タイゾーさんが笑顔でいてくれるなら、頑張って続けていきたい。・・・そんな思いからの言葉だった。
 麻子の言葉をうけて、タイゾーさんは、少し目をまるくしていた。が、やがて、にっこり微笑んだ。それは、麻子の大好きな、あの笑顔だった。

 タイゾーさんの笑顔を想いながら、麻子は、ゆっくりと目を開けた。目の前には、どこまでも続く青い空が、広がっていた。
 決して目には見えないけれど、タイゾーさんのメールが、ポルトガルの空を目指して、元気よく飛んでいくようである。今日も明日もあさっても、ずうっと、ずっと・・・・・。
 その光景を心に浮かべながら、麻子は、タイゾーさんに言いそびれた言葉を、そっと呟いた。
 「オブリガード、タイゾーさん」と。


(「オブリガード」by とうのよりこ)

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