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なつかしの佳作 「手」

 ミーン、ミーン、ミーン・・・・・。

 蝉が、忙しそうに鳴き始めた。ひとつ鳴けば、負けじと、別の木に掴まった蝉が、鳴く。あちらこちらで、大
合唱である。
 『今日も暑いですよ、暑いですよ』
 奈津には、蝉がそう唄っているように聞こえた。嫌やな、と呟く彼女の表情は、憂鬱そのものだった。

 今日は、大阪の義母を訪ねる日である。朝から憂鬱なのは、暑さのせいばかりではない。むしろ大阪へ行かな
ければならないことの方が、原因だった。五年前、義母は家を出て、娘の元へと行った。夫が亡くなり、身軽になったこともある。

 だが、本当の理由は、奈津が仕事を辞め、家に居るようになったからだった。明治生まれの義母にとって、嫁である奈津の存在は、何かにつけ気に入らないものだった。どこがどうというわけではない。そこには、脈々と受け継がれてきた『嫁と姑』の関係があるだけだ。おそらく義母もまた、同じような仕打ちを受けてきたに違いなかった。それがそのまま自分にはねかえってきているのだ。奈津は、そう自分に言い聞かせた。が、それにしても、事あるごとにつらく当たる義母には、辟易していた。正直、出て行くと聞かされた時、理由はどうあれ、ほっと胸を撫で下ろしさえした。

 けれども、年に二回、ちょうど正月と盆の頃、義母の元へ足を運ばなければならなかった。縁あって義母と呼
ぶ人である。些少なりとも親孝行をしなければならない。それに、厄介をかけている義姉夫婦に対しても、礼を尽くさなければならない。戦後二十年経ったとはいえ、奈津の中には、まだまだ古いしきたりが健在していた。
 
 毎回、小さな麻子の手を引いて行く。なぜなら、麻子が、義母の唯一のお気に入りの孫であるからだ。気に染
まぬ嫁の訪問は嫌であろうが、孫が一緒であれば、義母の顔も緩む。五歳になったばかりの麻子にしてみれば、訳もわからぬまま連れて行かれるわけだが、奈津は自分一人で行く自信がなかった。

 奈津は、麻子の枕元に赴いた。スヤスヤと眠る娘の寝顔を見て、酷な気もしたが、思いきって起こすことにし
た。
 「麻ちゃん、麻ちゃん。起っきして」
 けれども、麻子の目はいっこうに開かない。少し開いたかと思うと、またすぐ眠そうに閉じてしまう。こうな
ると、奈津はついついキツイ口調になる。
 「ほら、シャンとなさい。お出かけしないとあかんのよ」
と、むりやり麻子の体を抱き起こした。眠い目をこすりながら、麻子は、今にも泣き出しそうな顔だった。が、
母親の顔を間近に見たとたん、ウッ、と泣くのをこらえた。むやみに泣けば、叱られると知っていたからだ。
 奈津は、パジャマを脱がせると、汗ビッショリになった麻子の体をタオルでゴシゴシと拭いた。少し痛かった
のか、麻子は、顔を歪めた。が、奈津は態と気付かない振りをした。
 「昨日の晩、言ったでしょ。大阪へ行くから、ちゃんと起きようね、って」
 「おおしゃか?」
 麻子は、寝ぼけた声で、繰り返した。
 「大阪よ。おばあちゃんの所」
 そう言われても、麻子は、すぐにピンとこなかった。キョトンと、大きな目を開け、唇を尖らせた。
 奈津は、うんざりした表情で応えた。
 「大阪のおばあちゃんよ。お正月にも行ったでしょう」
 あ、と麻子は、大きな目を更にパッチリと開けた。ようやく思い出したようである。
 「お父さんのおかあちゃん!」
 麻子は、ひとり納得し、頷いた。無理もなかった。大阪のおばあちゃん、と言えば、年に二回会うくらいで、
あまり馴染みがなかったからだ。それに、以心伝心というべきか、母親の気が進まないところだと、子供心にも何となく感じ取っていた。大阪へ行くのだ、と聞かされて、麻子は、浮かない顔をした。

 早昼をとった後、奈津は麻子の手を引いて、家を出た。家の近くのバス停から、市バスに乗り、三宮に出る。そこから、電車に乗り換える。大阪まで行けば、また乗り換え。何度か行ったことがあるとはいえ、普段、あまり神戸を離れたことがない為、お上りさん同然である。更に、神戸の何倍もの人波が、奈津と麻子を襲った。特に、小さい麻子にとって、大人の持つカバンは、ひどく恐ろしかった。油断していると、顔に直撃するからだ。しかも、異常に暑かった。喉がカラカラで、何か冷たいものが飲みたかった。
 麻子は、「おかあちゃん・・・・・」と、母親の顔を見上げた。が、奈津はそれどころではない様子だった。
「環状線、環状線」と、呪文のように呟きながら、キョロキョロとあたりを見渡していた。麻子は、それ以上、何も言えなかった。
 
「あった。麻ちゃん、この電車に乗って、『つるはし』で降りたら、すぐよ。もうちょっとやからね」
 奈津の言葉に、麻子は頷いた。そして、「つるはし、つるはし」と何度も呟いた。
 ホームに上がると、電車は、すぐに滑りこんできた。奈津は、ホッとした。幸い、車内は空いており、座るこ
とが出来た。義母に会う前の、束の間の休息のようにも思えた。

 鶴橋駅に着いたのは、一時前であった。義母は、娘夫婦が営むミシン工場の二階に、留守番役として住んでい
る。その為、昼休みを外して行くのだが、小さな工場のことである。きっちり決まった時間に昼食がとれるとは限らない。奈津は、一瞬迷った。もし食事時であれば、文句を言われるに違いない。かと言って、不慣れな土地で時間を潰す手段も見つからない。いつ何時訪れても、歓迎されないことだけは、確かである。奈津は、そのまま義母の元へと向かうことにした。

 駅から十分ほど歩くと、小さな工場がいくつも立ち並んでいる。下請工場ばかりが集在する中に、工場は在る
。工場までの道のりは、一本道で迷うことはない。それに、工場付近に行くと、ウィーン、ウィーン、ガシャン、ガシャンという機械の音がする。しかし、まだ食事時なのか、機械の音は聞こえず、プーンと油の匂いだけが、奈津の鼻についた。
 工場内は、モワッとした熱気が立ちこめていた。人気はなく、天井に取り付けられた大きな扇風機が、カラカ
ラと音を立てて回っていた。奈津は、中二階の事務所に向かって、声をかけた。が、奥からの返事はなかった。やはりまだお昼休みのようである。
 「ごめんください。神戸の奈津です」
 奈津は、うわずった声で、もう一度叫んだ。ようやく、義姉が開けっ放しの窓から、ひょいと顔を出した。そ
して、奈津の姿を認めると、「ああ、上がってちょうだい」と、口をモゴモゴさせながら、応えた。言われるまま、事務所へ上がると、義兄や数人の従業員達が、遅い昼食をとっていた。もともと無愛想な義兄は、奈津の持ってきた水菓子を一瞥したきり、また黙々とざるそばをすすった。奈津はバツが悪く、何度も頭を下げた。
 「お食事のところ、すみません。あの、お義母さんは?」
 奈津が訊くと、義姉は上の部屋を指さしながら、工場内に響くくらいの大声で叫んだ。
 「お母さん、お母さん。神戸の奈津さんが来はりましたで」
 いっせいに、従業員が好奇の目で、奈津を見た。ああ、これがあの奈津さんか、という目だった。奈津の顔は
、ひきつり真っ赤になった。慌てて義姉に、
 「すみません、義姉さん。直接、上がってみますから・・・」
と断ると、麻子の手を引いて、義母の部屋へ通ずる階段へと向かった。

 階段は狭く、ギシギシと古い音を立てた。大人一人、通るのがやっとである。先に奈津が上がり、後から麻子
が付いてきた。階段を上りきれば、すぐ義母の部屋である。黄ばんだ襖の向こうに、義母が居る。襖は、年中ピシャリと閉められている。工場から響く機械の音と熱気を遮る為である。が、奈津には、その閉ざされた襖が、特別に思えてならない。部屋の中からは、テレビの音が聞こえてくるばかりである。奈津は、緊張した。そして、大きく息を吸い込むと、声をかけた。
 「お義母さん。奈津です。ご機嫌、いかがですか?」
 しかし、返答はなかった。相変わらず、テレビの音が、返ってくるだけだった。奈津は、眉をひそめた。義母
の機嫌は、良くないらしい。一瞬、ためらった。が、もう一度、声をかけてみることにした。
 「麻子も一緒です。入ってもいいですか?」
 そして、思いきって、襖に右手をかけ、開けようとした。その時、ようやく義母は、返事をした。
 「気分、悪いのや。今日は、帰ってくれるか」
 義母の刺すような言葉に、奈津の右手がビクッ、と凍りついた。暫し、声も出なかった。目を閉じ、心を落ち
着かせようと、ゆっくり深呼吸をした。仕方がない。諦めが肝心だと思った。
 「そうですか。そしたら、此処に置いておきますから。お体、大事になさって下さい」
と、白い封筒を柱と襖の間に差し込んだ。中には、義母へのお小遣いとして、家計から捻出したお金が入ってい
た。
 奈津は気を取り直すと、麻子の方を向いた。
 「さ、麻子。帰るよ。おばあちゃん、気分悪いんやて」
と小声で囁いた。麻子は、不思議そうな顔をしたが、黙って母親の言葉に従った。
 奈津と麻子は、今しがた上がってきたばかりの階段を、またギシギシと音を立てて、降りることとなった。何
とも情けない気分である。だが、義母の冷たい仕打ちはそれだけではなかった。あと二段というところまで降りた時、更に追い打ちをかけるように、義母の言葉が、奈津の背中を突き刺した。
 「何もお昼ご飯の時に、来んでもええのに・・・。気の利かん嫁や。ゆっくりできひんわ」

 奈津は、悔しさで、胸がしめつけられるように、痛かった。もはや一分、一秒たりとも、この場に居たくはな
かった。そそくさと、義姉夫婦と従業員達に挨拶を済ませると、逃げるようにして、工場を出た。皆、不審そうに見たが、説明する気など起こらなかった。麻子の手を引っ張ると、無我夢中で駆け出していた。
〝悔しい。惨めだ。情けない。いったい、私が何をしたのだろう〟
 そんな思いが、奈津の心を抉った。見る見る、涙が溢れてきた。が、奈津は、泣いたら負けや、と必死になっ
て涙をこらえた。こらえるうち、だんだん足早になった。まるで、義母の呪縛から逃れるかのように、走っていた。麻子は、といえば、母親に引きずられるような恰好になり、引っ張られる手の痛みが、彼女の顔を歪ませた。それでも麻子は、母親の手を決して離さなかった。この手を離せば、取り残されるのではないか、という恐怖。そして、手から伝わってくる母親の心の痛みを、敏感に感じとっていたからだった。
 息切れがして、奈津は、立ち止まった。すでに、駅前に辿り着いていた。その時はじめて、ひどく汗をかいて
いることに気付いた。どんなに暑くても、汗ひとつかかない質なのに、首筋はビッショリ濡れていた。ハンカチで汗を拭いながら、麻子を見ると、荒く息を吐き、頭から水をかぶったような有様であった。しかも、母親の顔色をうかがうような目をしていた。奈津は、急いでバッグからタオルを取り出し、麻子の顔を丁寧に拭いた。すると、麻子は、はあーっ、と大きく息を吐いた。

 ふと、ひなびた喫茶店が奈津の目に入った。
 「麻ちゃん、休んでいこうか」
 奈津が言うと、麻子は小さく頷いた。
 店内は、クーラーが効いており、ひんやりとしていた。ぐったりと席に着いた麻子だったが、急に目が輝いた
。奈津は、麻子が見つめる方へ目を遣った。そこには、ソフトクリームの機械があった。
 麻子は、ソフトクリームが大好きである。だが、胃腸の弱い体質なため、ソフトクリームを食べると、決まっ
て下痢を起こす。
〝食べたいけど、食べられへん。おねだりしても、あかん、って言われるやろうなあ〟
 麻子は、そんな諦めた表情をしていた。奈津は、麻子が何やら哀れに思えた。暑いさなか、自分に付き合って
、大阪の義母を訪ねてくれた麻子。けれど、義母はぞんざいに追い返した。自分はともかく、せめて麻子だけは、冷たいジュースでも飲ませて欲しかった。
 今日は特別だ、と奈津は、ソフトクリームを注文した。途端に、麻子は目を輝かせた。それでも、ソフトクリ
ームが運ばれてくるまでは、まだ信じられない様子だった。目の前に置かれても、すぐ食べようとせず、上目遣いに、「いいの?」と確かめてくる。奈津が頷くと、麻子は、もう嬉しくてたまらない、といった表情でソフトクリームを手に取った。そこには、見る者を和ませてくれる、子供の笑顔があった。麻子の笑顔を見るうち、奈津の心は、次第に落ち着きを取り戻していった。

 その夜、麻子は、ひどい下痢を起こし、九度近い熱を出した。奈津は、夫から「ソフトクリーム食べさせたんか」と、ひどく叱責された。理由も問い正さずになじる夫に対して、内心大いに腹は立ったが、奈津は決して言い訳しなかった。母親として、子供の健康管理を怠っていたことには違いない。それでも、夫に対して、やりきれなさを感じずにはいられなかった。
 だが、夜中に麻子が「お母ちゃん、お母ちゃん・・・・・」と、その小さな手を差しのべてきた時、奈津はハ
ッとした。夢中で、麻子の手を握りしめた。
 「お母さん、ずっと此処に居るからね。安心して、ねんねしなさい」
 母親の言葉に安心したのか、まもなく麻子は寝入った。穏やかな寝顔だった。けれど、麻子が眠っても、奈津
はずっと麻子の手を握りしめていた。小さな小さな手が、愛おしく、否、痛々しくてたまらなかった。幼い麻子に、辛い思いを味わせてしまったことへの後悔もある。だが、何よりも、自分が、この小さな手に支えられていたのだと、気付いたのだった。

〝この手がなかったら・・・・・〟

 そう思う奈津の目から、涙がポロポロとこぼれ落ちた。それは、工場を出た時からずっとこらえていた涙でも
ある。
 「ごめんね。麻子・・・・・」
 奈津の呟きは、縁側から吹く夜風の中へと吸い込まれていった。
 チリーン、チリーン、と風鈴の音色が、奈津の耳元へ届けられた。昼間の暑さが嘘のような、涼しい夜だった



(1997年8月 神戸新聞文芸小説 佳作「手」 by とうのよりこ)

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