小説 「ドンペリと一輪のバラ」
「ドンペリと一輪のバラ」 とうのよりこ
空にうかぶ白い雲が、ゆっくりと流れている。
春の風が柔らかく、潮の香りをのせて、由布子の頬をかすめていく。
この感じ、いつかどこかで感じたような・・・。
由布子は不意に足をとめた。何かあたたかく大きなものに包まれていくような感覚。あれは、いつだったか、誰だったか。
しかし、気を取り直して、また歩を進めた。今日は、クライアントのリゾートホテルとの大事な打合せがある。
クライアントの営業部長から、新しい企画の広告を依頼したいと連絡があった。ほかに案件はいくつもかかえていたが、由布子は何をさておき、優先させた。このリゾートホテルは、由布子にとって、初めて契約にこぎつけた大事な顧客であるからだ。
駐車場からホテルの正面玄関まで、何度も通った道。ベルボーイとは顔なじみである。軽く会釈をして、ロビーに入る。フロントで挨拶をし、営業部長への取次ぎを頼んだ。
そう、いつもと同じ。何も変わらない。なのに、なぜだろう。少し胸がドキドキして、何か起こるような、そんな予感がする。
由布子はエレベーターに乗り込み、事務所のある階のボタンを押した。すべるようにエレベーターは上がっていく。いつもなら、ぼんやりと外の光景に目を遣るのだが、今日は余裕がない。相変わらず、胸の鼓動が早い。
応接室に通されて、営業部長を待った。おそらく1~2分待っただけだと思うのに、その間が異常に長く感じた。
まもなく営業部長は、「やぁ、いつも突然ですまないね」と、現れた。彼の口癖である。
そして、由布子の前に企画書を置いた。そこには、「ドンペリニヨンディナー」とタイトルがつけられていた。
由布子は、思わず息を呑んだ。
ドンペリニヨン・・・通称ドンペリ。シャンパンの王様。
そして、由布子にとって特別な意味をもつ名前。
企画書を手にした営業部長は、早速説明を始めた。
「ドンペリとフレンチを楽しんでもらうディナーの企画です。対象はカップル。ちょっとセレブ感を出すだけなら、いかにもって感じだし。ひねりが欲しいんですよね。広告は顧客への配布用とホテル設置用のリーフレット。あとホームページにも。まあいつもと同じで・・・」
由布子には、営業部長の声が聞こえているし、ちゃんと理解もしている。だが、心ここにあらずの状態なのだ。動揺を隠せない。営業部長も、さすがに由布子の様子がおかしいと気づいた。
「冴木さん?どうかした?顔色、悪いよ」
由布子は我に返り、企画書へ目を遣った。
「すみません、大丈夫です」
「らしくないな。どうしたの?何か思い出でもあるの?ドンペリに」
「あ、いえ・・・」
「まあ、詮索はしないけど。来週月曜日にはプレゼンできる?」
「わかりました。では月曜日11時にプレゼンさせていただきます」
「楽しみにしてるよ」
「はい」
とは答えたものの、スケジュール的にはきつい。
今日が水曜日だから、2日間。アイデアがまとまらなければ土日返上だ。そう、急がなければ。
踵を返すように、事務所を後にした。フロントへの挨拶もそこそこに、駐車場へ向かい、車に乗り込んだ。
シートに座った瞬間、極度の緊張感から放たれたせいか、脱力感が由布子を襲った。
大きなため息をつくと、由布子は目をとじた。
何かが起こるような気がした予感は、このことだったのだ。
由布子は特別、勘が鋭いというわけではない。もっとも、初対面でこの人と自分がどう接するようになるかは、直感でわかる。たとえば、この人とは恋におちるだろうとか、この人とは長く仕事でつきあうようになるだろうとか。その場限りで終わってしまう人には、何も感じない。関心があるかないか、それだけかもしれないが。
由布子の脳裏に、あの日のことが鮮明な映像で再現されていく。
特別な日、人生のターニングポイントになった日。
あの日も、このリゾートホテルだった・・・。
5年前。当時、由布子は貿易商社に勤務していた。専務秘書をしていた由布子は、毎日が専務のスケジュールで動いているようなもので、休暇取得もままならない状態だった。忙しさは苦にならない。苦にならないが、時々心の内にわきあがる焦燥感。29歳・・・もうすぐ30歳になる。恋人はいるが、まだ結婚したいという気にはならない。今はなにもかも中途半端のような気がして、けれど結婚に逃げるのはいやだった。
「このままでいいの?」 「いい・・・」 「ほんとに?」 「・・・たぶん・・・」
由布子は自問自答の日々を送っていた。
そんな頃だった。アメリカ支社長の田嶋が出張のため来神した。年に一度は日本市場の調査のため、本社事務所のある神戸を訪れる。
アルマーニのスーツ姿が印象的で、日本語も英語も早口で話した。いつも慌しく昼夜を問わず動き回るから、「24時間男」の異名をとっていた。
ある種のカリスマ性をもっていて、若い男性社員達は少しでも田嶋と話をし、何かを吸収しようとチャンスをうかがっていた。田嶋も出来るだけ時間をとるようにしていたから、神戸に滞在中は寝る暇もないほどだった。
由布子は田嶋と接する機会が多く、細々としたいわゆる雑用を引き受けていた。勿論、アメリカ支社や外国の顧客との連絡役も担当していたから、英語が話せなければつとまらない。
初めて田嶋に紹介された時、「英語、どこで覚えたの?」と聞かれた。
「NHKのラジオ講座と英会話学校です」と答えたら、大笑いされた。
なにがおかしいのだろう? 由布子はむっとした。
由布子にとって、留学は大ごとだった。短期留学なら出来ただろう。が、どうせ行くなら1~2年はみっちり勉強したかったし、そもそも語学習得のための留学をする気はなかった。それなら日本でも出来る。
留学先で何を学ぶか?それが見出せなかったのだ。
「一度、冴木さんをアメリカ支社へ出張させてよ。勿論ひとりでね。人生修行にもなる」と、専務の結城のほうを見ながら、田嶋は言った。
「ダメだよ。冴木さんひとりを行かせたら、お前に何をされるかわからない。その時は私も一緒に行くよ」
「専務と一緒のほうがアブナイでしょ、ね?」
田嶋は由布子のほうを振り返り、笑った。由布子は苦笑するしかない。
田嶋と結城は大学時代からの友人である。結城が初めて田嶋と会った時、結城は自分の会社(正確に言うと父親の経営する会社)へ入れようと思った。「自分のパートナーになる」。直感だった。
「とはいえ、ウチは小さな貿易商社。大手企業の内定をもらっていたアイツになかなか言い出せなくて」
すると、田嶋のほうがしびれをきらせ、「アメリカへ行かせてくれるなら入ってやる。そのかわり、来年は売上を2倍にする」と公言した。
こうして、田嶋は入社と同時にアメリカ支社へ赴任し、翌年には約束通り売上を2倍にした。
「本当はもっと稼いだはずだろ?」と結城は見透かしたように言った。
すると「金はばらまかなきゃ入ってこない」と、田嶋は平然と答えた。
以来、15年。2人は対等に歩んできた。
しかし、今回の来神は少し様子が違っていた。
詳しい事情はわからないが、どこかよそよそしい。いつもと違う何かが感じとられた。
東京へ発つ朝、事務所に現れた田嶋は連日の疲れが出たのか、ひどくぐったりとした様子だった。
こんな時は、少し濃い目の煎茶を出す。
すると、田嶋は 「おいしいなあ。やっぱり日本茶だよな」と、にっこり笑った。
特に用もなさそうなので、由布子はその場を離れようとした。すると、田嶋が急に思い立ったように切り出した。
「そうだ。今日、お昼ご馳走するよ。都合どう?」
「え?ええ・・・」
由布子は少しためらった。田嶋と二人きりというのはまずいだろうという顔をしている。
すかさず、田嶋が言った。
「専務も一緒にって言っておくから」
由布子の表情がやわらぎ、それならば、と承諾した。
「じゃあ、Pホテルの31階。フレンチね」
そう言って、田嶋は取引先の会社へ向かった。
しかし、昼前になると、結城は突然、「銀行の支店長と昼食をとる」と言い、出かけてしまった。朝確認した段階ではそんな予定は入っていなかった。アポをとっていた気配もない。それに、田嶋から何も聞いていないのだろうか?
田嶋との約束の時間が迫っている。由布子は何度も時計を見た。もう今出なければ間に合わない、というギリギリになって、心を決めた。
仕方がない。一人で行くしかない。
由布子はPホテルへ向かった。タクシーに乗り込んだ後、ほんの少し後悔した。急用が出来たとか何とか理由をつけて断っても良かったのではないか。
いつもこうだ、私は。自分のこととなると、迷ったり悩んだりして、なかなか前へ進めない。追い詰められて、やっと重い腰をあげる。それでもまだ迷う。
迷う由布子をよそに、タクシーはPホテルの正面玄関へ着いてしまった。さすがにここまで来たら、後へは引き返せない。
フロントの前を通り過ぎ、エレベーターホールへ向かう。上階へのボタンを押すと、すぐにエレベーターのドアが開いた。
31階のボタンを押す。エレベーターは、すべるように上階へと由布子を運ぶ。外の光景は、目に映っているが、ぼんやり見えている程度である。やはり緊張している。まもなく、エレベーターが止まり、ドアが開いた。
31階のフレンチレストランは、接待以外では来たことがない。なんといっても値段がはる。名前を告げると、予約テーブルへ通された。まだ田嶋の姿はなかった。
平日の午後。高級レストランでランチを食べる。窓からの景色も普段とは違って見える。
なんて贅沢なんだろう。相手が田嶋でなかったら・・・。いやいや、そんなことは言うまい。
それにしても、ゆったりと時間が流れていく感じ。事務所にいる時には味わえない、至福のひととき、とでもいうべきか。
そんな幸せな気分に浸っている由布子の目の前に、一輪のバラが差し出された。驚いて顔を上げると、そこには田嶋の姿があった。
「お待たせ」
「あの・・・」
由布子はやや戸惑った。差し出された一輪のバラをどう解釈すればいいのだろう。受け取るのをためらっていると、
「ボクの挨拶だと思って。女性と二人きりで食事をするときは必ず渡すの」
と、田嶋は傍にいる支配人に聞こえないように、耳元でささやいた。
ああ、そうなのか。由布子はほっとした。深い意味はないようだ。
「有難うございます」とお礼を述べ、バラを受け取った。
支配人が「きれいなバラですね。よろしゅうございましたね」と微笑んだ。
由布子は少し照れ、バラをグラスの右横にそっと置いた。日の光を受けた一輪のバラが、キラキラ輝いて見える。
田嶋はデジュネ(ランチ)とドンペリを注文した。
「まだ仕事がありますから」
接待で昼間からお酒を飲むこともあったが、一応断った。
「少しだけ味わってみて。飲んだことないでしょ?ドンペリ」
由布子は頷いた。
「若い時分に出来るだけいいものを味わう。これは大切なことだよ」
ドンペリニヨン・・・ 。これがかの有名なドンペリ。テレビで見たことはある。
ソムリエが静かにコルクを抜いた。田嶋のシャンパングラスに少し注ぎ、テイスティングを促した。
「うん」とだけ田嶋は言い、ソムリエは「ありがとうございます」と応えた。
由布子のグラスにも注がれた。「どうぞ」と田嶋にすすめられ、一口飲んだ。
柔らかい気泡とともに、上品で酸味のある甘みが広がっていく。それでいてさっぱりとしている。
確かに美味しい。普通のスパークリングワインとは格段に味が違う。伊達に値段が高いわけではないような気がする。
「おいしい!」
由布子の素直な表現に、田嶋は嬉しそうに笑った。
他に表現のしようがない。とにかく美味しいのだから。
本当はもう少し飲みたかったが、午後からの仕事を考えて、2杯目は遠慮した。
「真面目なんだな、ほんとに。もう少しいい加減にしたら?ボクみたいに」
「支社長は、ビジネスだけじゃなく、何に対しても全力投球じゃないですか。昨夜も営業1課の若手を引き連れて飲んでらしたんでしょ?」
「彼らにもいろいろ伝えたいことがあってね。でも・・・」と、彼は言いかけていた言葉をひっこめた。
由布子が促すと、田嶋は首を横に振った。言いにくいことなのだろう、と由布子も深くは追究しなかった。
田嶋のほうが話題を変えた。
「そう、今日君を食事に招待したのは、これまでの御礼が言いたかったからなんだ。実は今度会社を辞めることになってね」
「えっ?」由布子は驚いた。「なぜ?どうして?」
「独立することにした。だから、これからはライバルだよ」
「そんな・・・。専務は納得されたんですか?」
「専務は気が楽になったんじゃないかな。いい加減な男と縁が切れるって」
田嶋は肩をすくめた。
そんなはずはない。どれだけ専務が田嶋を信頼しているか、誰でも知っていることだ。いったい何があったというのだろう?
「本当に今まで有難う。君がいてくれたから、日本での仕事もスムーズに進められた。これは半分冗談でなんだけど、君をアメリカへ転勤させて欲しいって、専務に頼んだことがあるんだよ。でも、彼は真顔で断った。彼にとって、君は特別なんだね」
「そんな・・・」
由布子は首を横にふった。専務にとって、特別なわけではない。気心が知れているだけである。
「で、君にアドバイスしたいことがある」
田嶋は由布子を真っ直ぐに見た。由布子は息をのみ、姿勢を正した。
「君はこのまま専務秘書のままでいるつもり?」
「え?」
思ってもみない言葉だった。「専務秘書のままでいるつもり?」とはどういうことなのだろう。
「あくまでこれは僕の個人的な意見なんだけど、君はもうすぐ30だよね。今の仕事のままでいいの?」
それは、いつも自問自答していることだ。
「これは僕の勝手な意見にすぎないけど」
田嶋はドンペリを飲み干し、グラスを開けた。支配人が他のお酒をすすめたが、田嶋はエスプレッソを頼んだ。酔いをさますつもりなのだろう。
「要するに、君はいまのままじゃもったいないよ。専務は君を手放さないだろう。うん、これはいろんな意味でだけど。でも、やはり君のためにはならない。もっともっと外の世界を見るべきだ。そして、新しい道を切り開いてほしい」
新しい道・・・。意外な言葉だった。いや、それが答えなのだろう。わかっていても、自分では言い出せなかっただけである。
田嶋は続けた。
「ねぇ、冴木さん。僕はいろんな女性を見てきたけど、君みたいな保守的な女性と会ったのはものすごく久しぶりなんだ。最初に『どこで英語を覚えたの?』と聞いた時、君は『ラジオ講座と英会話学校』って答えたよね。正直その時驚いた。ああ、この子は留学もせず、コツコツと勉強したんだなぁ。なんて真面目なんだろう、って思ったよ。案の定、仕事も真面目にそつなくこなす。頭がいい。器用だ。いや、待てよ。この子は器用貧乏なんじゃないか?何かもっと秀でた才能があるはずなのに、機会に恵まれないのか、あるいは自分でカラにとじこもっているのか、一歩前に進めずにいる。誰かが背中を押してやらないとダメなんじゃないのか?・・・そう思ったんだ」
「・・・・・」
「一度きりの人生だよ。君自身が主役にならないと。そうだろ?」
由布子は黙りこんだ。確かに秘書は脇役である。だからといって、いったい何で主役になれるというのだろう。
「結婚するならそれも良し。でも、仕事は続けてほしいな。僕としては。まあ、じっくり考えて。これは僕からの贈る言葉と思って。ね・・・」
田嶋はそう言うと、急に席を立った。食事はとうに終わっている。時計を見ると、2時前だった。もう神戸を発たなければいけない時間なのだ。
由布子は田嶋を新神戸駅まで送った。タクシーの中では、ほとんど無言だった。田嶋はじっと目を閉じ、考え事をしているようだった。
駅に着いた。まだ無言のままタクシーを降り、改札口の前まで進んだ。
由布子は笑顔で軽く会釈をした。すると、田島は急に由布子のほうを振り返り、彼女めがけて走ってきた。そして、有無を言わさず、由布子を抱きしめた。
息がとまりそうだった。それは、あまりにも突然の出来事だったから。
耳元で田嶋が囁いた。「今後会った時は・・・・・」までは聞こえたが、その先は聞き取れなかった。
そして、由布子が聞き返す間もなく、身体を離すと同時に、田嶋は改札を駆け抜けて行った。
一度も振り返ることもなく。
由布子はしばらく呆然とその場に立っていた。
いったい何が起こったのだろう。田嶋に抱きしめられた感覚だけが残っている。
あれは何?何の意味?・・・別れの挨拶?
今日の田嶋はワケがわからない。理解できない。
どのくらい時間が経ったのだろう。行きかう人の波に、ふと我に返った。
事務所へ戻らなければ。
タクシーに乗り、行き先を告げた。田嶋が何を言ったのかを、考えていた。しかし、答えは見つからなかった。見つからないまま、事務所のあるビルに着いてしまった。
事務所に入ると、すぐロッカーへ向かった。バラを持って戻るわけにはいかない。別に悪いことをしたわけではないが、他の人には・・・特に専務にはバラをもらったことを知られたくなかった。
由布子は、そんな自分を訝しく思った。思いながらも、バラをロッカーの中にとじこめた。
席に着くと、結城の姿が見えた。帰っている。ドアをノックし、専務室へ入った。
結城が由布子の姿を見とめた。
「行ったか?」と聞いた。由布子が頷くと、「そうか」とだけつぶやいた。それ以上、何も聞かなかった。
ため息をつくと、ぼーっと窓の外を眺めた。初めて見る、結城の寂しそうな横顔がそこにあった。
結城は、なぜ田嶋をとめなかったのだろう?パートナーとして認めた親友を、なぜ?
聞きたいことは山ほどある。田嶋が言ったこと。田嶋がしたこと。
だが、いまの結城には聞けない。そんな負担はかけたくない。彼はいま傷ついている・・・。
帰宅して、バッグからバラを取り出した。今にもしおれそうだったが、コップに水を入れ浸してやると、少し生き返ったように見えた。
一輪のバラ。
花束なら、恋人からお誕生日にもらったことがある。が、バラを一輪だけというのは初めてである。
田嶋は「女性への挨拶」だと言っていた。口説く相手ならわかる。ならば、渡す相手を間違えている。そのことは、最後の抱擁とあわせて、今は考えないようにしようと思った。
「新しい道」について。
由布子は、これからやりたいことを考えた。が、思いつかない。今度は、やりたかったことを学生時代まで遡り考えた。
考えるうち、急に睡魔がおそってきた。おそらく、昼間からドンペリを飲んだせいもあるだろう。それに、田嶋との時間はあまりにも内容が濃く、とても疲れた。
今日はもう寝よう。考える時間はいくらである・・・。
その夜、由布子は久しぶりに熟睡した。
まもなく田嶋はアメリカ支社を辞めた。わかっていたことではあったが、やはりショックは隠せない。
そして、由布子は真実を聞いた。田嶋が辞めた本当の理由を。
それは、本社の意向が自らの信念を曲げるもので、従えなかったからだった。上層部のなかで、ただ一人、結城は最後まで田嶋を守ろうとした。だが、役員達は冷ややかだった。そして、田嶋のほうが先に辞表を提出した。
「これまで自由にやってこれたのは、専務のおかげだ。だから、専務に迷惑をかけられない」
田嶋の潔さ。誰にでも出来ることではない。
無難にやり過ごせば、支社長のポストを捨てずにすんだだろう。だが、田嶋はそれを潔しと思わなかったのだ。
そして、田嶋は「独立」という新しい道を切り開こうとしている。
田嶋なら大丈夫。きっと、成功をおさめるだろう。そして送り出す結城も、誰よりもそれがわかっているのだ。
由布子は田嶋の言葉を思い返していた。5年後、10年後の私。いったいどうなっているだろう?そこに見えてきたのは、今とほとんど変わらない光景である。何も変わらない。ただ年を重ねているだけの。
今の仕事は、果たして本当にやりたいことだったのだろうか?
わからない。
やりたいことは確かにあった。でも、4年制の女子大卒で就職にはずいぶん苦労した。やりたい仕事イコール就職ではないことを実感し、やがて諦めた。そうして、やっとの思いで内定をとりつけたのが、今の会社である。
30歳。これからリセットするには遅いのではないか。でも、5年後の35歳、10年後の40歳では、もっと遅いだろう。
やはり決めなければ。自分の人生なのだから。そう、私自身が主役にならなければ・・・。
1年後、由布子は会社を辞めた。学生時代に出来ればやってみたい、と考えていた広告企画の仕事に就くため、本格的にデザインの勉強を始めることにした。
それでも、辞めるまでの1年、さんざん考え迷い、なかなか踏み出せずにいた。
つきあっていた恋人に何度も相談した。彼は「由布子のやりたいようにすればいい。僕は応援する」と言ってくれた。だが、彼の言葉では不安を払拭することは出来なかった。
そんな由布子の背中を押してくれたのは、他ならぬ結城である。
「君なら大丈夫」
「専務・・・」
「君の実力を誰よりもわかっている僕が保証してるんだ。がんばりなさい」
由布子は、結城のこの言葉で心を決めた。
由布子に疑問を投げかけたのは田嶋。
そして、背中を押してくれたのは結城である。
結城が、田嶋から何か話を聞いていたのかは定かではない。いや、あの二人なら、きっと。そうに違いない。
会社を去る朝、結城は由布子に手紙をくれた。
「家で読むように」と言われたので、そのままバッグにしのばせた。
送別会をすませ、帰宅したのは12時前だった。「まだ飲み足りない」という後輩もいたが、「私は明日からプー太郎だけど、あなたたちは明日仕事でしょ?」と彼らを帰らせた。本当は朝まで飲み明かしたい気分だったが、そうもいくまい。
絶対泣くまいと心に決めていたから、笑顔で職場の上司、同僚を見送った。
もらった花束を花瓶に飾り、少し眺めた。由布子をイメージしたピンクのガーベラとかすみ草。確かにそつなくまとまっていて、綺麗である。が、個性がないと思うのは自分と重ねあわせるからだろうか。
由布子は苦笑した。
冷蔵庫からミネラウォーターを取り出すと、喉を潤した。はぁーっとため息をつくと、リビングのソファに腰をおろした。
疲れた・・・。やっと迎えた退職の日。張り詰めていた糸がぷっつり切れていくようだ。
いや、まだある。まだしなければならないことが。
バッグの中から、結城からの手紙を取り出すと、静かに開封した。
結城の自筆・・・相変わらず読みにくい字である。「読めない」とは言えず、何度この字に悩まされたことだろう。だんだん愛着のある字にはなったが・・・。
「冴木さん、お疲れさまでした。私の秘書として、尽力してくれて、本当に有難う。
君のさりげない心配りには、いつも感謝していました。
君がいなくなってからは、しばらく寂しい思いをするんだろうね。
田嶋が辞めた時もそうだった。
・・・あの日、彼が神戸へ来たとき、彼は君を昼食に誘い、私は行かなかった。
彼が何を言うか、おおよそ見当はついていたから。
彼はずっと君のことを『優秀だ。だから今の仕事じゃ、もったいない』と口癖のように言っていた。
私も君の才能を認めていたし、だからこそ私の口からは言えなかった。
あの日、君が田嶋と昼食をともにした日。彼から電話があった。
『彼女に新しい道を切り開くようにすすめたよ。専務からは言えないだろうと思ってね。
それと、もういい加減手放してやれよ。自分のエゴのために、彼女を一生傍においておく気か?』
これには、さすがの私もまいったね。すっかり見透かされていると思った。
だから、私は君が新しい道を切り開くのを応援することにした。
迷っている君の背中を押して、送り出そうと思った。
これからの君の活躍を期待しています。
何か困ったことがあったら、いつでも連絡してください。
私はいつでも君の味方だ。 結城」
途中から涙があふれ、文字がかすんだ。手紙を読み終えた由布子は、号泣した。
彼らに出会えて、本当によかった。本当に・・・。
由布子は、その夜一睡もすることなく、新しい朝を迎えた。
あれから5年。
5年の間に、由布子は今の広告企画会社へ転職した。
一度結婚もした。まだ貿易商社にいる頃からつきあっていた彼である。やさしい人で、貿易商社を辞めた時も、デザインの勉強を始めた時も応援してくれた。再就職した時、プロポーズされ、結婚した。
しかし、由布子の仕事がだんだん忙しくなると、生活のすれ違いが生じ、やがて心もすれ違うようになった。それでも、由布子は懸命に結婚生活を続けようと努力した。
ある日、夫が言った。
「別れよう」
理由を問うと、「君は、僕を必要としていない。僕を必要としない君とは一緒にいられない」と、夫は答えた。
由布子の頬を大粒の涙がこぼれ落ちた。どうして、そんなひどいことを言うの?もう愛していないってこと?・・・そう言いたかったが、言葉が出てこなかった。
「君はたぶん、別の人を・・・」
そう言いかけて、夫は口をつぐんだ。夫の目にも涙がうかんでいた。
そう、由布子にはわかっていた。夫が何を言いたかったのか。心のどこかで、いつも彼らを想っていたのだ。
あたたかく大きな力でつつみこんでくれていた彼らを。
田嶋とは会っていない。
結城とは一度バッタリ街中で会ったが、お互いクライアントを連れていたので、挨拶だけ交わした。その後、数回メールのやりとりをしたが、いつの間か音信不通になってしまった。
二人とも元気にしているのだろうか?
ドンペリの味は、もう忘れてしまった。
ただ、あの午後の光景だけは、はっきりと記憶している。
窓からさしこむ温かい陽気。テーブルに置かれたシャンパングラス。ドンペリの細かな気泡に、溶けこむように映る一輪のバラ。
あの光景は、色鮮やかに思い出すことが出来る。それほど印象的なシーンだった。
今の私に、田嶋はまた一輪のバラを贈ってくれるだろうか?
なぜ一輪のバラを贈ったのか、理由を聞かなかった。
聞いてみたい。本当の理由を。
そして、最後の抱擁の意味も知りたい。
・・・いや、本当は答えがわかっている。
田嶋も、結城も・・・そうなのだ。
しかし、彼らはあえて言わなかった。それが彼らの「大人のルール」だった。
それに、私はまだ対等な女性ではなかったのだ。
由布子は、ゆっくりと目を開けた。
くすっと笑った彼女の顔は、すっかり晴れていた。
もう過去に浸っている場合ではない。
仕事が待っている。いい企画を出さなければ。
そうすることが、「新しい道」へ送り出してくれた二人の男たちへの恩返しにもなる。
そして、いつかまた会う日のためにも。
そう、彼らとはまた出会うだろう。これも確かな予感である。
由布子は、エンジンをかけると、車を発進させた。
(2007年9月 「ドンペリと一輪のバラ」 by とうのよりこ)
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