エッセイ「秋の珍客」
「秋の珍客」 とうの よりこ
あれは肌寒い秋の夜のこと。
東京へ日帰り出張していた私が、ようやく新神戸に着いたのは11時すぎ。
身体はもうへとへと。早く熱いお風呂に入って、身体をあたためたい。
とても、地下鉄とバスを乗り継いで帰る気にはなれず、迷わずタクシーに乗り込んだ。
タクシー代は出張旅費でおりないが、そんなことは言ってられない。
とにかく一刻も早く家に帰りたい。
あったかい湯船につかりたい。ただそれだけしか頭になかった。
新神戸から自宅まで、タクシーなら約10分。タクシーに乗ると、必ず道を指定する。変な輩に引っかかったら、遠回りされるからである。
幸い10分もかからず、自宅付近に着いた。タクシーを降り、横断歩道を渡る。ゆるい坂を上り、最初の路地を入れば、我が家はすぐそこである。
「あともう少し・・・」と、心のなかでつぶやく私を突然呼び止める声がした。
「お姉ちゃん、あかんで!」
声がしたほうを見ると、通りに面した角の家人だった。ちょっとにぎやかなオバチャンである。
近所づきあいがほとんどない町内なので、このオバチャンとも挨拶を交わす程度である。
いったい何の用なのかと、やや不機嫌そうに「こんばんは」と挨拶した。
オバチャンは、私の顔色など気にもせず、続ける。
「イノシシがおるねん!」
「は?」
「イノシシ!」
そう言われてもピンとこない。イノシシがいるはずもないだろう。だって、ここは街中だもの。
そうして、オバチャンが指差すほうを訝しげに見た。
なにやら黒い物体が、我が家の前をウロウロしている。犬でもない、なにか特別なカタチをした動物。
黒ブタ?いや、ちがう。
あれは紛れもない。
そう、イノシシだ!
「いや~。私、帰れない!」思わず悲鳴をあげる。
オバチャンは「しぃーっ!」と静止した。「声に反応して、こっちへ突進してきたら、どないすんの?」
確かにおっしゃる通り。
だが、目の鼻と先に我が家があるというのに。もうお風呂は目前なのに。
なんでイノシシが家の前にいるのだろう。
「いま警察よんでるねんけど、なかなかこーへんのよ。ちょっと、こっちに避難しとき」
オバチャンは、自分の家の玄関でしばらく待っていたほうが良いと招きいれた。お言葉に甘えて玄関に入ると、かわいいポメラニアンに出迎えられた。一瞬、身構える。犬は嫌いではない。だが、犬からは好かれないタイプのようで、いつも吠えられる。案の定、オバチャンの愛犬にも「キャン、キャン」と吠えられた。こういうときは、知らん顔を決めこむことにしている。そのうち、犬も飽きる。
「警察くるの遅いなぁ、もう一回電話してみようか」
オバチャンは、受話器をとり、警察へ電話をかけた。
「さっきも電話したんやけど」ではじまり、
「え?だから、イノシシがいるのよ!」
「何回同じこと言わせるの?」と、だんだんオバチャンの口調はきつくなり、最後にはとうとう怒り始めた。
「警察は市民を守るもんとちがうの!?」
おー、こわい・・・。私は外へ出た。そろそろイノシシが立ち去っていないか、期待をこめて、路地をのぞいた。
黒い物体は見えない。
「あ、いない・・・かも」
私の声にオバチャンは敏感に反応し、ラチのいかぬ電話をさっさと切り、表に出てきた。
「ほんま、おらへんね。でも隠れてるのかも。ちょっとオバチャン、見てきてあげるわ」
なんて勇気があること。
ガンバレ、オバチャン!
私は、勇敢なオバチャンの背中にエールを送った。
オバチャンは、我が家の前まで行くと、曲がり角からぬぅっと現れた男性と話を始めた。見た感じから、隣家のオジサンのようだ。オジサンの片手には、棒のようなものが見える。
2人の様子から大丈夫のようだが、念のため、オバチャンの帰りを待つことにした。
オバチャンはニコニコ笑いながら、戻ってくると、
「もう大丈夫やで。オジサンがほうきで追い払ってくれたんやって」
「ほうきで?」棒のように見えたのは、ほうきだった。でも、なぜほうきなのだろう?まあ、何でもいい。追っ払ってくれたんだから。
「私らが玄関に入ってる間に、表通りのほうへ出ていったみたいやな」
何はともあれ、ひと安心である。
「じゃあ・・・」と帰ろうとする私を、オバチャンは引き止めるように言った。
「前の日からゴミを出しっぱなしにしてるから、あさりにくるんよ!」
この地区では、普通ゴミは火・金。しかし、前日の夜に出してしまう人が多い。だから、毎朝ゴミ袋は破られ、生ゴミが散乱している。野良猫の仕業だと思っていたが、まさかイノシシまで山から下りてきていたとは・・・。
「ルールは守らなアカンわ、なあ!だいたいやねぇ・・・」
オバチャンはえらくテンションが上がっている。
話は、いつまで続くのだろう。身体も冷えてきた。早くお風呂に入りたい。
小刻みに震える私を見て、オバチャンは言った。
「お姉ちゃん、冷えたんとちがう?はよ帰って、お風呂であたたまり」
そう、その言葉を待っていたのである。
「ほんと、いろいろと有難うございました」
私が深々と頭を下げると、オバチャンは軽く肩をたたき、
「なに言うてんの。ご近所さんやないの!」と豪快に笑った。
帰宅して、イノシシが出たことを母に報告すると、
「どうして知らせてくれなかったのよ?」と文句を言われた。
「知らせてどうするの?」
「退治する」
あまりにも自信満々に言いきる母に、私は呆れた。
「だって、このあたりはヘビも住んでたし、イタチも横行してたし。そういうのは見慣れてるわよ」と、母。
確かにヘビもイタチもいた。それは私が小さい頃のこと。ヘビといってもアオダイショウだったし、イタチも家の裏を走りまわるだけだった。
しかし、イノシシである。見慣れているわけもない。
「はいはい、次見たときは知らせます」
私はすげない返事をすると、浴室へ向かった。母はまだ何か言っていたが、それよりもお風呂である。芯から冷えていたので、湯船につかった時は、もう生き返る思いだった。
とんだ珍客のせいで、エライ1日になったものだ。
数日後、オバチャンは「ゴミを前日に出さないでください。イノシシが出ます」という看板を自腹で作り、貼り出してくれた。
自腹になったのは、役所にかけあったが、許可が下りなかったからだという。
看板のおかげで、前日に出すゴミの量は減り、生ゴミが散乱している光景を見ることも少なくなった。
そして、あの夜以来、イノシシを見ることはない。
(2007年10月 「秋の珍客」 by とうのよりこ)
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